「人生は廻る 輪のように」人々を癒すものは無条件の愛しかない

人生は廻る輪のようにを読みました。

私が尊敬する精神科医が、尊敬する精神科医の自伝です。

著者のエリザベス・キューブラー・ロスは1926年に生まれ、2004年に亡くなったスイス人のちスイス系アメリカ人の精神科医です。

三つ子の姉妹として生まれ、体重900gと小さかったので、とても生きるとは思われなかったそうです。

父が祖母に「生まれた」って電話した後、二人目が生まれて「二人目が生まれた」。その電話の後さらに母に陣痛が来て3人目が生まれて「三人目が生まれた」って電話したそう。

祖母は翌日新聞でキューブラー家に三つ子誕生という記事を見るまで、父の冗談だと思っていたそう。

見分けのつかない三つ子の一人として育った著者は、物心がついた時からアイデンティティーを求めて苦闘していました。

わずか900gで生まれ落ち、育つ見込みがほとんどなかったことに加えて、子供時代の全ての時間が「自分は誰か」を知ろうとする試みに費やされていました。

著者はいつも、人の十倍の努力をして人より十倍も価値が、生きる価値があることを示さなければと感じていました。

それが毎日の責め苦でした。

今にしてようやく、それが責め苦ではなく祝福であったことがわかります。

そうした苦境は、まだ社会に出る前に自らが選び取っていたものでした。

必ずしも喜ばしいものではなかったかもしれない。望んだものではなかったかもしれない。

しかし、その経験こそが著者に、待ち受ける出来事の全てに立ち向かう勇気と決断力と耐久力を与えてくれたのです。

 

著者が5歳で初めて入院した時、医師が「病気に打ちひしがれる一人の少女としてではなく、物体として扱っていた」と書いています。

これと同じことが、人を変え場所を変えて何度も何度も出てきます。著者の人生の最後の方でさえ!

現代でももしかしたら同じことがあるかもしれませんね。

著者は退院し、世界最高の医薬を受けます。すなわち、家庭で受けた看護、慰め、愛、そしてわずかばかりのチョコレート!

また、著者の子供時代のうさぎのブラッキーの話が出てきます。

いつも抱いて可愛がり、どんな秘密も打ち上げていました。

とても聞き上手な、素晴らしい精神科医でした。

この世でただ一人無条件で私を愛してくれる生き物だと確信していました。

そのブラッキーを肉屋に持っていけと父に命令されたのです。

そして晩御飯になりました。

子供時代の著者は、「これに耐えることができたら。どんなに辛いことでも耐えられるようになるわ」

と言っています。

 

スージーという転校生が病気で死んだ時、暖かい太陽の光からさえ遠ざけられ、厚いカーテンに閉ざされた薄暗い部屋の中で最後の瞬間を迎えました。

果樹園主は、現在著者が「良い死」と呼んでいる死を迎えました。

自宅で、愛に包まれながら尊敬と尊厳と思慕の念を与えられて息を引き取りました。

家族は伝えたいことを全て伝え。未練と後悔のない悲しみに沈んでいました。

ささやかな経験を通じて、著者は死が必ずしも思い通りにならないものであることを学びました。

それでも、ある程度、選ぶことはできる。そんな気がしてならなかったのです。

 

16歳になった著者たちは堅信式に備えていました。

教会行事への参加を拒んでいた著者に、牧師から、大切なのは神をいかに崇拝するかではなくいかに生きるかなのだと言ったそうです。

「あなたは日々、神が差し伸べて下さるものの中から最高の選択をしなければなりません。

その選択によって、本当に神のおそばに生きているかどうかが決められるのです。」

 

著者が「超」がつく悲惨な状態にある患者たちのところに行った時、体に対する治療にもまして、心のケアに急を要する人たちであることがわかりました。

見捨てられた患者の大半が驚くほどあたたかく、優しく、思いやりのある人たちであることがわかりました。

仕事の後、患者のベッドに腰掛け、彼らの生活について、彼らが見てきたこと、経験してきたことについて、生きること一般について何時間も話し合いました。

患者たちは友情と共感に飢えていました。著者はそれを提供し、患者たちはお返しに著者の目と心を大きく開いてくれました。

その経験が著者をさらに強くしてくれました。

 

難民の子どもたちには一番必要だと感じた抱擁と慰めの言葉を与えました。

抱きしめて、「もう大丈夫よ」と声をかけました。

 

著者はこう言っています。

「人々を癒すものは無条件の愛しかない」

 

第二次世界大戦中、著者は13歳の時にチューリッヒで難民のための実験助手として働きました。

戦後は、フランス、ドイツ、ベルギー、デンマーク、スウェーデン、チェコスロバキア、ポーランドなどで救援活動を行いました。

1954年にポーランドのマイダネック強制収容所を訪れたことをきっかけに、人間の精神が持つ思いやりの力と回復力に関心を持つようになりました。

また、収容所の壁に彫られていたたくさんのの絵にも大きな影響を受けました。

なぜ蝶なの?

それから25年間、同じ問いを繰り返したそうです。

蝶は何年も心に残り、人生の終わりについての考え方に影響を与えました。

この年、彼女は国際平和ボランティア活動にも活動家として参加しました。

 

 

強制収容所で殺されかけた同い年ぐらいの女性、ゴルダに、「ヒトラーは私たち全員の中にいるの」

と言われました。

ゴルダは、「せっかく救われた命を、憎しみの種を撒き散らすことだけに使ったとしたら、私もヒトラーと変わらなくなる。

憎しみの輪を広げようとする哀れな犠牲者の一人になるだけ。

平和への道を探すためには、過去は過去に返すしかないのよ。」

 

それにしてもあれほどの悲惨な経験をしながら憎しみを捨て、許しと愛を選んだゴルダのことはなんと説明すればいいのでしょうか?

ゴルダはこう言って答えてくれた。

「たった一人でもいいから、憎しみと復讐に生きている人を愛と慈悲に生きる人に変えることができたら、私も生き残った甲斐があるというものよ。」

 

 

死とその過程に関する研究で、著者が一番影響を受けた精神医学者はC.G.ユングでした。

何度も見かけながら、自分から離れていったそうです。

そのころの著者は、ユングに声をかけたら精神科医になってしまうと思っていたそうです。

その頃の著者は、精神科医は進路志望リストの最下位に位置していたそうです。

著者は専門医ではなく、全科目を診療するカントリードクターになる決心をしていました。

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